2012年、南アフリカへ行ってきました。南アフリカは、日本から、とても遠い国です。
1月11日、ルイボス農園グループのマーティン社長が、家族旅行で日本に来ました。その帰り、TIGERへ来社された。
マーティン社長から「3月中旬、南アフリカではルイボスティーの収穫の季節です。我々の農園を視察しながら、南アフリカへ旅行はいかが・・・・・。」
私は、是非、伺いたい!と即答しました。旅行に行くと決まれば、ワクワクして旅の支度。まずは、形から入ろう!
夏のジャケットを、タンスから出して、インディージョーンズのように、”パナマ・ハット”。古着のようなジーパンにカジュアルなシャツ。
早速、「地球の歩き方 南アフリカ」と言うガイドブックを書店で購入した。道先案内人は、R・マーケット社のクリントンさんと、4歳になるお嬢さんミーシャちゃん。私と、頼りになる通訳の伊東章の旅がはじまりました。
私たちと一緒に南アフリカへ旅立った気持ちでお話を聞いてください。

3月14日(水) 晴れ
クリントンさんと成田で待ち合わせをする。
フライトは18時40分
成田から香港まで、約4時間半。香港から南アフリカのヨハネスブルグまで、約13時間。
そしてケープタウンまで、約4時間。
家族からは「南アフリカの人はカラダが大きいから、きっと香港からは、エコノミーのシートでも広いよ」と言われたが狭かった…。
香港を離陸後、アナウンスが入る。
「只今より、機内は、消毒スプレーを散布いたします。コンタクトレンズを装着の方は目を閉じてください。散布の間、お席を立たないで下さい。」
キンチョールのようなスプレーを2本持ったスチュワーデスさんが、歩きながら、機内の天井にむかって噴射をする。
シューシュー…消毒くさ~い! 凄いことをする。 私は、はじめて体験した!さて、13時間は長いフライト時間です。機内の映画やニュースは、英語・中国語・イタリア語・フランス語・現地語???日本語版を探しても見つからない。
だから、ワインで気を紛らわせ、目を閉じ夢の世界。そして、日付は変更された…。
『ボンガニ』でサファリを体験
3月15日(木) 晴れ

朝、7時にヨハネスブルグ空港に着きました。
現地で生活しているクリントンさんのお母さんが、出迎えてくれました。
これは可愛い孫娘のミーシャちゃんに会う事を楽しみに待っていた。
お母さんは、日本へ時々来日、ミーシャちゃんは、南アフリカが初めてです。
お母さんは、孫娘と、南アフリカの大自然を共有したいと、気持ちは膨らんでいる。
そこに便乗し、私たちも、南アフリカの探検に参加できた事はラッキーです。
お母さんは、毎年1ヶ月位、ジャングルの奥地で、キャンピングカーに乗り、生活している自然愛好家と聞きました。
だから、車の運転も上手い!
高速道路に入ると、道路は広く、真っ直ぐです。時速120キロ以上で、約4時間半ぶっ飛ばす。トイレの休憩は2回だけ!少なくても、空港から480キロ走っている計算になる。日本の道路と違い、周りの車もスピード違反と思えた。
やがて、小さな村に到着しました。
更に、山奥へ1時間。
ここからは、お母さんの目的地ボンガニへ。
山道だから静かな運転で走る。
南アフリカが人種差別アパルトヘイトの頃。1990年ネルソン・マンデラ氏が牢獄から釈放された。
その後、ボンガニで静養され、4年後にマンデラ大統領が誕生しました。
この地で、マンデラ元大統領は、心身ともに癒した。
その住居跡の正面ロッジが、私たちの宿でした。
さて、私たちのガイド役は、軍人のような2人。
そして、軍用トラックのような車。
これが日本のトヨタ製でした。
これはまたカッコいい。
軍人のような2人とは、真っ黒な体で、引き締まった黒人兵と、体が大きく、がっちりしている、大らかな白人女性兵です。
私達が到着すると、ロッジに通され、ゆっくりとする間もなく、ジャングルの奥地へ・・・・・。
車で「けもの道」のような道を、約40分進む。
その間に、野生のシカと遭遇。
シカは集団で、草をわけあうように食べていました。
遠くからは、数匹で囲むようにハイエナの集団が狙っている。
でも、シカは賢く感知すると、素早く逃げて行った。
その光景を見ながら車はゆっくりと走る。
大きな木が風に揺れ、木々がそびえ立つ場所に来た。
野生のキリンと遭遇。
実に大きい!
私が知っているキリンとは違う。
毛並みも良い、色も深く綺麗だ。
キリンが、首をゆっくりと動かし、私達を尻目に去って行った。
歩くとおしりも筋肉が盛り上がる。
ほんとにグラマラスでした。
映画ジュラシックパークの草食恐竜を見ているようだ。
さて、車は、ぬかるんだ道を約1時間。
小さな湖に出る。
バファローと対面もした。
これも毛並みは黒々と雄大。
シャッターチャンスを逃がした!
更に、山へ向かい走る。
バリバリと木の枝が折れる音がする。
今度は、野生のアフリカゾウの群れに遭遇した。
この光景は、非常に珍しいとガイドが話していた。
奥地での探検は翌日も続く。
孤児院『ツー・シスターズ』へ
3月17日(土) 晴れ
朝の散歩。もう、ここには、訪れないだろう。思い出を沢山頂いた。
南アフリカは、大自然に恵まれていた。しかし、南アフリカは大きな社会問題も抱えている。1つとして、「エイズ孤児」の問題です。

私達は、その子達を預かる、施設ツー・シスターズに訪問いたしました。
クリントンさんのお母さんは、クリントンさんと孫娘ミーシャちゃんにも、南アフリカの実情を、肌で知ってもらいたかったと思います。
親がエイズ患者で子供が孤児となっている。
その孤児200人以上を自費で養っている人もいました。
この施設へ2、3日前に、慶応大学の教授と生徒数人が訪れたとお聞きした。
施設へ着くと、正面玄関に日本の国旗が書かれている。
食糧も足りない。
国からの援助もなく、養っている。
出来うる限りの国際援助を期待し、個人的には応援もしたい。
そんな気持ちで施設を後にしました。
さて、これから、ヨハネスブルグ空港から、ケープタウンへ向かいます。
ヨハネスブルグ空港まで車で4時間。
一路、目的のケープタウンへ。
ケープタウンのホテルへ着いたのは遅くなり、食事はナシでした。
ヨーロッパとアジアを結ぶ『ケープタウン』
3月18日(日) 晴天
カーテンの隙間から朝の光が差し込み、眠りから覚める。窓を開けると、爽やかな風が入り込む。日中と朝夕とは気温の差が激しいのが、ここ南アフリカです。
朝食を済ませ今日1日のスケジュールをチェックする。夕方には、ルイボス農園グループの社長宅へ訪問。ルイボス農園と、工場の見学は、明日(月曜日)になっている。今日は、素敵なケープタウンの町を…。現地で育ったクリントンさんが道先案内人です。
レンタカーを借り、ケープタウンの観光に出発する。空は真っ青、雲もなく、風は、ほどよく涼しい。運転は、クリントンさん。
助手席に私が乗ることになった。後ろの席は、通訳の章君とクリントンさんの娘ミーシャちゃん。車の窓を開け、風に当たりながら海岸線をビューと走る。
景色を見ながら、頭に浮かぶのはケープタウンと日本の繋がりです。
ケープタウンは、1652年、今から360年前にオランダ東インド会社の補給基地としてできた町です。
その後、アジアへも進出し、坂本龍馬・桂小五郎・勝海舟などがいた、幕末の頃、長崎に商船を停泊するようになったみたいだ。
遥か遠くの国から、大きな船で、インド洋、南シナ海、太平洋と大海原を乗り越え、上陸し、帰りには、日本の文化をヨーロッパまで伝えたり運んだりした。
当時のオランダ東インド会社は、今は存在しないが、文化文明の「夢の運び人」。
ケープタウンがその本拠地だった。
さて、私たちが向かったのはケープタウンの象徴であるテーブルマウンテン。
この山は、すべて岩盤でできている。
ナイフで横に切ったように平らな頂上。
それが特徴です。
クリントンさんのお話だと、ケープタウンは気候が変わりやすく、頂上を中心にかかる霧や雲の具合で天候や風の強さが予想できるみたいだ。
町から見て、山に雲がかかっていないなら、登山は最高と・・・・。
今日は、雲一つない晴天です。
この、テーブルマウンテンに霧や雲がたちこめて、登れなくても、幻想的な山です。
天候が変わっても、最高と言っていた。
何でも、最高みたいだ!?????
車をテーブルマウンテンの麓で停車する。
ここから、登山口まで、歩いて300メートルくらいでした。
登山口を目指し、歩いていたら、突然の風が山から吹き降りてきた。
風の力はとても強い!
私のパナマ帽が突風に耐えられなく、空を舞った。
柵を越え、風に乗って、紙飛行機のように茂みの谷へ飛ばされた。
とっさに、私は、インディージョーンズのように柵をのり越え、駆け下りた。
その時、警備員が、大きな声で「そこには毒蛇がいるから危ない!」
もちろん日本語ではない!○×▽□△!×○▽□
私は、驚いて立ち止まる。
先日、この地の毒蛇は、日本のマムシやハブよりも、猛毒があり、瞬殺されるとサファリのガイドさんから聞かされている。
私の頭の中は"真っ白"
パナマ帽が・・・・・でも毒蛇は怖い・・・・
大切な帽子だ!・・・・・
でも、毒蛇にかまれたくない!
脳内を駆け巡る。
恐々と茂みから戻る。
その時、若い警備員が、柵を乗り越え、かけ下りて、帽子を取り戻してくれた。
ヘ~イ! 旦那! □△!×○
笑顔でパナマ帽を私に渡してくれた。
お礼の気持ちとして、20ランド(日本円で二千円くらい)。
パナマ帽が、僕の手元に・・・・よかった!【感謝】 でも、ほんとに毒蛇いるのかな???
登山入口から頂上までは、足で登ると3時間以上かかる。
ロープウエイでブーンと、5分間で頂上まで着く。
私たちは、楽ちんな、ロープウエイに決めた。
麓と頂上との温度差は、6℃。勿論頂上が低い。風は強いから、夏でも上着が必要と言われた。
頂上に着くと、確かに涼しい。
下の写真が、テーブルマウンテンから見た、ケープタウンです。景色はとても美しいでしょう。
ついにルイボスティーの故郷
『クラン・ウイリアム』へ
3月19日(月) 晴天
翌朝、4時に目が覚める。
今日からのルイボス農場と、工場の視察の事を思うと、気が高ぶり、夜中に何度も起きる。5時頃、夜明けを告げるように、ニワトリの声が遥か遠くから聞こえる。私は、ベットから降り、朝のストレッチと家の外周を散歩する。途中、すごく広い柵の中で白と茶色の馬が放牧されていた。遠くで私を見つけて、白い馬の方が近づいてくる。目の前に来て、鼻を近づけてくる。
きっと、私を朝食の係りと間違えたのでしょう。朝の散歩の思い出でした。7時に朝食。9時半、ルイボスティーの農園と工場の見学へ出発。
到着して驚いた事は、スケールの大きさです。
これがルイボスティーの畑なのか!
ここで、昔話ですが聞いて下さい。
私がルイボスティーと出会ったのは平成元年です。
その頃、南アフリカはアパルトヘイト「原住民と開拓民の人種差別」暗い時代でした。
その頃、日本へ輸入されたルイボスティーは、茶袋に25kg入れられ、湿った干し草の匂いがした。
日本茶の工場へ加工依頼すると、違うお茶へ匂いが移ると言われ、好まれなかった。
それから、土佐清水病院の診療所の片隅で、職員さんが、土瓶に水とルイボスティーを入れ、強火で沸騰させ、沸点に達したら弱火にして15分~20分煎じる。それを冷まして飲む。
この作り方を患者さんに教えていました。
これは、煎じ薬と同じです。
この作り方だと、茶葉が古くても固くても、成分が出やすく、熱菌消毒もできちゃう。
ただ、濃い味で苦みも出てしまった。
今でもこの味を好む人もいます。
平成3年に、日本茶製法のルイボスティーを作ってみました。
お茶の本場「駿河の国」 の製茶工場でルイボスティーを、さらに細かく砕き、熱菌消毒を兼ね、火入れを施した。
湿気を防ぐように密閉缶で製品化。
これを、丹羽靭負博士にお伝えしたら、「オー伊東くん!よく考えて、よく作ったな・・・。 感心感心と・・・。 」
安心・安全・うまい!を手間暇かけて作ったら値段が高くて、こだわる人にしか求められなかった。
結局、私は、散財しました。
この旅は私にとって、感動の毎日でした。先住民族の描いた壁画を始め、この国の素敵な風景。もっと、もっと紙面が許せたらお話したかった。
この旅行のあと、ベルギーで開かれたヨーロッパ・シェフ・ソムリエ連盟の味覚品評会で、遠赤焙煎加工のルイボスティーが優秀味覚賞を受賞しました。
製品化に向けて試飲を繰り返し協力して頂いたみなさまへ、謹んでご報告いたします。
長い文章に目を通して頂き、本当にありがとうございました。
これにて、ペンを置きます。
